私のラッキーナンバーは「98」!(続)

私は98(キューハチ)に育てられたと言っても過言ではない。正確には、その前の88(ハチハチ)、ワンボードコンピュータEX-80にも育てられたのだが、その期間はやはり98が一番長い。

PC-9801の初代機は1982年の登場である。Windows 2000のリリースと少し、20年ほど98の時代は続いたわけだ。晩年はボケてよくわからなくなっていたが、1995年前後のPC-9821Aシリーズあたりが頂点だったろう。

98というところから脇にそれるが、EX-80はインテル製の8ビットマイクロプロセッサ8080A(2MHz)を搭載した東芝のワンボードコンピュータである。NECのTK-80に比べれば影が薄いが、TVインタフェース、カセットインタフェース(300bps)を備える当時は高級機であった。組み立てキットで、8万円以上した。しかも電源は別で、その電源も+12V, +5V, -5Vが必要と大変なものだった。メモリはモニタROMが2キロバイト、RAMがワークメモリを含めて1キロバイトしかなく、その限られた世界でいかに遊ぶか、というのがテーマであった。

私の高校生時代は、アマチュア無線を除けばこのEX-80のみとの付き合いであった。しかしEX-80によって、機械語の素養を身に付けたことは、大きなアドバンテージとなった。アセンブラもなく、とにかく16進コードでプログラムを入れていくしかないという環境は、いわゆるストアドプログラムの概念を知らず知らずにマスターし、ごく自然に使いこなすようになったいたのである。しかもEX-80にはなぜか逆アセンブラが載っていて、それでメモリ中のプログラムをニーモニック表示することができた。

EX-80には、サンプルプログラムがいくつか付属していた。もちろん、マニュアルに16進コードがびっしり印刷されているというものなので、仲間で手分けして打ち込み、カセットテープに保存する、ということをやっていた。スタートレックや三山崩しなどのプログラムがあったが、ただ動かしているだけではつまらないので、オリジナルで野球盤を作ったり、オセロ盤を作ったりしていた。

もちろん、このメモリ容量では思考ルーチンなど組み込めるはずもなく、そのような素養もなかったので、「盤」としての機能しかなかったのは愛嬌である。それでも、10文字×20文字のキャラクタ画面、80ドット×20ドットの簡易グラフィック画面をいかに活用するか、ということは多いに創意工夫をかき立てられた。

しかしここで機械語をやっていたということは、その後の人生に大きな影響、いや、取り返しのつかない影響を与えたのである。そんなこともそのうち書くんだろうか?というか、98とは関係ないよねと言いながら実は関係あるというイヤらしい伏線を張るのである。

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