通勤手当なんて廃止すべき、かな?

着眼点が面白くて、愛読しているブログ。あまり他人のブログ投稿を引用して自分の投稿のネタに、なんてことはしたくないんだけど、たまたま似たようなことを考えていたので、引っ張らせてもらうことにした。

通勤手当なんて廃止すべき – Chikirinの日記

まあ超有名人なので、知っている人も多いはず。引っ張らせてもらう、なんておこがましい感じ。でも、通勤手当というのが実に社会に貢献的か、逆説的にまとめてみたい。

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改めて説明は不要だが、通勤手当とは、会社員などが自宅と職場の往復に必要な交通費を職場が負担する制度。このおかげで、交通費を気にせずに仕事ができる。もちろん上限はあるけれど、普通列車を使って通うような範囲であれば、ほぼ職場が出してくれる。

なんでこんなこと考えているかというと、たとえば朝の通勤時、下手すると1時間近くも電車に乗り続け、その間はずっと寝ていて、それに見合う仕事が職場で求められている人がどれだけいるのかな?と思ったから。多少差別的だが、移動時間に見合う仕事している人がどれだけいるんだろう?自分を振り返れば、お前、そんな負担の上にする価値のある仕事なの?と自問自答してしまう。

通勤手当があるから、どんなに交通費をかけても、本人の懐は痛まない。手当を出す職場の方も、交通費は経費になるから、問題ない。

これが、交通費は自分で負担しろ、となったらどうだろう?上の記事にもあるように、職場に近い、便利のよい場所に住もうとか、考えるかも知れない。多少住居費等は上がるだろうが、交通費を減らし、かつ移動時間も短くなり、精神的肉体的に好作用となれば、メリットの方が大きいかも知れない。

逆の意味で、便の悪いところには住む人が減るかも知れない。例えば、都心に出るのに便利な路線に乗り換えるのに一駅、という場所とか。具体的な駅名は挙げないが、たった一駅、その一駅のために片道200円以上払うとなったら、そんなところには住みたくない。もうちょっと家賃等が上がるのを我慢して、やっぱり便のよい路線に住みたいよね。

そう考えると、通勤手当というのは、本来居住に適さないか、あるいはかなり不便だよねというところでも、それが本人に感じられないようにしてしまい、結果として居住適地を拡げるための鉄道会社+鉄道系不動産デベロッパには絶対必要なものとも言えるのだ。

深読みしすぎかも知れないが、そんなことを考えてしまった投稿であった。奇しくもブログ主も、職場の移転で通勤時間が20分ほど伸びてしまった。移転前、移転直後はスゴくイヤだったが、今では慣れてしまった自分がいる。怖ろしいことだ。交通費はもちろん上がっているが、全額会社負担なので、自分の金銭的な負担はゼロだ。これが、自分で負担するなら、金額は上がるし時間は増えるしで、おそらくもっと通いやすい職場に転職、などということを真面目に考えるんだろうなぁ。

結論。通勤手当とは、遠方からの移動でも苦にならない人を手広く集めるための仕組みであり、不便な場所でもそれを認識させないという地域振興のためには不可欠な仕組みである。そういう意味では非常に日本的だ。どこに住んで、どこに通おうが個人の勝手で、そのメリットもデメリットもすべて当人が受け入れるということになれば、この国の労働風景も少しは変わるのかも知れないなぁ。

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