なまじ頭が良いと周囲が見誤ることがある。

今日は、酔った勢いでいつの間にか書かれていたような支離滅裂な投稿なのでご勘弁。

名古屋の事件。名大に進むような賢い女性が、なぜ人を殺めてしまうのか。しかも、「人を殺してみたかった」とは何事か。と思う。だが待ってほしい。「人を殺してみたかった。」なのだ。「人を殺したかった。」ではないのだ。「みたかった」という箇所には、知的好奇心を感じざるを得ない。名大に進む女性、知的好奇心。そこにギャップはないが、なぜ対象が「人を殺す」なのか。

こんなことを考えていたら、こんな記事を見つけた。

小学校の授業なんか意味がないと主張する、学歴主義・塾信者の母親。その時塾講師が諭した「小学校の存在意義」が、教育の本質を物語る。 |

ブログ主は、学習塾の存在を否定しないのだ。けど自分自身は、学習塾どころか、公立学校以外に通ったことはないのだ。学力を伸ばす、そこに力を注ぐ存在は否定しない。学力を伸ばす訓練をすること、それは人生においてマイナスにはならないと、感じている。

幼少の頃から出来のいい、という子供はいる。ブログ主がそうだ。というのはウソ。一度、そう言ってみたかった。冗談はさておき、そういう子供は、出来の良さを伸ばす方向に、周囲が動く。成績が上がり、教師の受けも良いというような方向に周囲が動く。反面、そうであれば他の部分は軽視されがちになる。学業は優秀なんだから、ほかに多少問題があろうがいいじゃないか、というような見方になる。

なまじ学業が優秀なだけに、ほかのことは学ばなくていいんじゃないかと、周囲も本人も思うようになる。これが冒頭の引用の本質ではないかと思う。学業で成果があがれば、手段はなんでもいいのであって、とすると学習塾があればいいのであり、小学校は不要ということになる。しかし幸いなことに、塾の講師は、本質を知った上で学習塾であえて成績向上のための授業をしているのだ。

小学校には小学校の役割がある。そこは、頭の良し悪しや運動ができるとかできないとか性格がいいとか悪いとか、そんなことは関係なしにいろんな子供が集まってくる集団だ。そこで、子供は人間には能力の差異があり、友人を愛するとか、助けるべきは弱いものとか、横暴には立ち向かうとか、そんな人生の基本を学ぶのだ。だが、そんなものには価値がないと見てしまうと、そういうものがずっぽり抜け落ちた大人が出来上がってしまう。

それが、名古屋事件の本質ではないのか? 優秀だからこそそうなってしまった、そういうことではないのか?

人は、殺めたりする興味の対象ではなく、自分と同じ愛すべき対象だと知っていれば、そんな衝動は発生しなかっただろう。しかし不幸なことに、知的興味が人との融和より勝った人生を送ってきたのではないのか、と思う。

なんともやりきれない事件が続くが、マスコミには表層的なことより、もっと本質をえぐるような深い報道を期待したいものだ。あ、ISILの人質殺害事件のときもそうだけど、本質をえぐると視聴率がとれないか。じゃ、仕方ないな。

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