諫早湾の干拓中止が、高裁によって取り消されたというニュース。私は右でも左でもないが、この手のニュースには反応したくなる。もういい加減こういうことはやめろよな、と思ってしまう。
もともとこの訴訟は、干拓による潮流の変化で、湾内のノリ漁業に悪影響が出たということらしいが、そもそもその因果関係を厳密に証明するのは難しいだろうと思っていた。ノリ漁業の販売額にばらつきがあるのは、相手が自然である以上致し方ないと思うし、それを以ていいだの悪いだのとは言えないと感じる。
だが、干拓事業費に対して、干拓後に供用される農地の収穫高が数十年かかっても回収できないほどなのは費用対効果に問題があるという意見には賛成だ。そもそも、農地を陸地では減らす方向で進めながら、わざわざ干拓して農地を新たに生み出すという発想自体がおかしいのだ。そこには、まず干拓ありきという発想があったことは否めないのではないか?
事業を計画した時点では妥当性があったとしても、長い間に政治経済状況が変わり、徐々に妥当性が失われていくということはよくある話だ。これも、20年近く経っている。果たして、現状で埋め立てを強行することに必然性はあるのか。
でもこういうことは経済的な話だけで進めていてもよくないと思っている。干拓によって失われるものは果たして何か。もっとメンタルな部分で議論してもいいと思っている。メンタルな話は女子供、老人のものといった認識が今の日本を支配してる限り、ますますこの手の話は増えていくだろう。役人や勤め人の常識が世間の常識というのも、そろそろ無理が出てきているのではないか。
今は環境保護とか言ってそういうことが盛んだと思っている人が多いだろうが、実態はまったく逆なのである。自分の身の回りを見て、そういう実感が果たして湧くかと言えば、まったくそんなことはないと皆が言うと思う。これが部分なら、部分の集合が全体なのである。どこかだけが特別、ということは決してないのである。