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求めよ、されば授けられん。その3

やや!nikkeibp.jp「from ガ島通信」さんの「事件・事故報道で今一度考えたいメディアの責任と体質(下)」がアップされているではないか!と今さら。(中)をアップしてから間髪入れずだったわけだ。週刊日経BPのメールのヘッダにないから、わからなかったよ。変なことばかり書くから、メールが来なくなったのかと思ったよ。って、んなわけないか。で、今さらなんですが。

最後と思われる(下)には、メディア内部の動きが、元新聞記者らしく赤裸々に書かれている。およそ、我々の想像を超えるような動きがあることがわかる。私は、これまでの投稿で市場原理に基づいたメディア内部の動きを書いてみたが、(下)を読んでみるとそれ以外のファクターがあることに気付く。それは、記者そのものが持つ独特の心理構造ではないだろうか。

シンプルな市場原理の下では、記者、デスク、新聞社、出版社、放送局は読者が欲しがるだろう、イコール媒体のコマーシャルに有用な内容に走るだろう。これなら、仮に読者や視聴者が現状のおかしさに気付き、より公正な記事、より本質的な記事を求めた場合、情報の送り元としてはそれに沿わざるを得なくなる。受け手が欲しくもないものを送り続けていても、セールスには結びつかないからだ。

しかし、行動原理がほかの部分にある場合はどうだろう?(下)の記事では、それは記者の功名心とか、新聞社としてのメンツとか、そういったものにあるのではないかと受け止めた。もはや、受け手のことはどうでもよく、自らが他社を出し抜いて満足する感覚、出し抜かれて落ち込む感覚、それが新聞社としての感情ならともかく、記者個人の欲求を満足させるためのものと思うと、望みもしないことをあれやこれやと出してくる感覚も納得できる。

ほかがやっているのにうちはやっていない、こういう状況を堪らんと思う構造は業種を問わず普遍的に存在するものと感じている。出版社だって、他社の売れている新刊を見てあとを追っかけることは普通に行われているわけだし、自動車だって後追いは日常茶飯だ。飯の種があれば飛びつく、それは正直な感情だろうと思う。

だが、報道という役割で見た場合には、確かに違和感が残る。それはおそらく、形に見えるもの、商品という形での送出になっていないからだと思う。書籍も、自動車も、それを以てお客さんに価値を問うて、お客さんが認めて初めて商売として成り立つものだが、報道の場合はちと違う。別に確固たる収益源があり、それを成り立たせるためのツールとして、報道があるような感じだ。悪い言い方をすれば、エサではないだろうか?

虎の威を刈る、というがその虎が何であるのか、いちどきちんと考えてみたい気もするが。お粗末。

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