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傲慢なオリジナル

ちょっと古い話で申し訳ないが、松本零士氏と槇原敬之氏の盗作問題について思うところを書いてみたい。事実関係はこの際関係なく、そもそもこの手の争いで争点となる「オリジナル」ということについて、思うところがあるのだ。

私は出版社に勤めているので、原稿や装丁など、クリエイティブな要素を含む成果物を年中見ているのだが、しょっちゅう、デジャブ(既視感)に襲われることがある。「あれ、これはどっかで見たことある」「読んだことある」そんな現象だ。気のせいならばそれに越したことはないのだが、実際はそうではなく、その既視感が錯覚ではなく正しかったことを思い知ることも少なくない。

デザイナーに限らず、ライターでも何でも、まったくゼロの状態から何かを創出するということは、基本的にないと思っていい。デザイナーも、本人が意識している、いないにかかわらず、過去に目にした、あるいは聞いた何かを脳に蓄積し、それが無意識のうちにアウトプットされることはある。私が指摘すれば、そういえば、あれに似ていますね、といった感想が初めて聞かれることになる。

ライターの場合、過去に読んだどこかの記事、そういったものを自分の意見として書いてくることも多い。現に、このブログの記事はどこかの雑誌記事に共感し、書いているものである。まったくゼロからものを作り出すということは、相当難しいのである。

こう考えると、槇原氏は過去に耳にした松本氏の作品を意識せずに深層意識に植え込み、知らずのうちにアウトプットしてしまった可能性もあるし、それは自然のことと思うのである。人間の脳の成り立ちからすれば、何かしらの経験をベースにしないと、あらたな行動は起こせないからだ。

この記事のタイトルで「傲慢な」と書いたのは、オリジナルを主張する人の傲慢さを指摘したいからである。インスピレーションを得たならそれを堂々と主張すればいいし、インスピレーションを得るのとパクってしまうのは別物なのである。残念なのは、槇原氏が自分のリリックスを「オリジナル」と公言している点である。クリエイターならば、「これは自分のオリジナルです!」と公言することは、かなり勇気の要る行為だと思っていい。言語、感覚、まったくの経験なしに自らアウトプットするのは至難の業だが、何かをベースに踏み台にして新たにものを作り出す行為は、難しいことではあるが創造的な行為であることは間違いないのである。

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