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それでも脳はたくらむ―茂木健一郎

それでも脳はたくらむ (中公新書ラクレ 264) 「それでも脳はたくらむ」茂木健一郎

タイトルに惹かれて勝ってしまったが、タイトルのとおりに「脳みそ陰謀論」などというものを期待すると、肩すかしを食らう。この本は、「読売ウィークリー」に連載されたエッセイ「脳から始まる」をまとめたものである。連載時のタイトルの無難さに対して、何と挑発的な新書のタイトルだろうか。

それでも、中身は奥の深い示唆に富んだ内容となっている。脳のどこがどうなっているとか、大脳皮質がどうとか、海馬がどうの、扁桃体がどうのという話は基本的に出てこない。その替わり、日常のありふれたこと、世の中のすごい人との出会いなど、そこから脳の動きを間接的に表現するような感じの内容になっている。

たとえば、最初のエッセイ「蝶捕り少年には不思議な力がある」では、幼少期の蝶好きな自分を題材にして、自然に親しむ(というより裏切られるという方が適当か?)ことの脳への影響を書いている。インターネットやテレビゲームは、もちろん人間が考え出したもので、こうしたらどうなる、ということがあらかじめ決められている。そこに接する人は、インプットに対するあらかじめ決められた反応を呼び出しているだけで、大きく予想を裏切られる、ということは少ないはずである。

ところが自然ときたら、まったくもってその後どうなるかは予想できないし、期待していても裏切られることがほとんどである。要するに、思い通りにならないのである。そのため、自然に接することは、常に「この先どうなるか?」ということを予測することの連続であり、変化に追従していくことである。このとき、脳はめまぐるしく働く。エッセイのタイトルとおり、蝶を捕まえようとする少年は、いつ現れるかわからない蝶を待ち、現れたら現れたで蝶の種類を識別し、蝶の行動を予測して捕捉するといったことを、瞬時に成し遂げなければならないのである。この繰り返しが脳に何かを与えるのだ。

私の経験で申し訳ないが、私は蝶は捕らなかったが替わりに蝉にはまっていた。少年期の夏休みは、自転車に乗ってかなりの遠出をした。昼食を採って夕食まで帰ってこない、といったことの繰り返しであった。どこに行っているかといえば、市内の奥の方、すなわち山あいの方である(当時の私は海に近い方に住んでいた)。平地の市なので、山あいといってもたかが知れている。それでも少しでも木々の多いところ、というところでわざわざ出掛けていった。家の近くではアブラゼミしかいなかったので、羽の透明な蝉はそれこそ憧れであった。そんなことを繰り返したせいか、今でも木を見れば、どこに蝉がいるのか、正面でも横でもすぐにわかる。妻には「何でそんなにわかるの?」とか聞かれるが、わかってしまうのだから仕方ない。こんなことができて人生何の得になるのかと思うが、子供に蝉のありかを教えるには役立っている。これだけだが。

私の場合はつまらない能力を身に付けただけだが、子供のときに体験していたことは、必ず成長してからの自分に影響を与えることだけはわかる。私たちの時代は、そういう意味では恵まれていた。インターネットもなく、携帯電話もなく、電気で動く便利な道具もたいしてなかった。その替わり、知恵と工夫を総動員して何かを成し遂げるということが、非常に低いレベルでも可能であった。ゲーム機などというものもなかったから、遊ぶといえば仲間同士で、あれこれルールを決めながら没頭するしかなかった。そういった不自由さが逆に脳にとっては豊かな環境であり、何でも揃っている豊かさが逆に脳にとっては貧困な環境であるとは何という皮肉か。

これだけシステム化されて便利になってしまった世の中で、自らの意志で便利さから脱却し、自らの意志で飽食から抜け出し、脳が喜ぶことをしていかなければならないのは結構大変だ。そう思いながら、便利なツールを使ってこんなことを書いているのだ。果たしてこれは刺激になるか…。

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