サイトアイコン たまプラ通信

覆水盆に返らず、となるのだろうか?

昨日の記事で、広瀬隆「危険な話」のことを書いたが、「覆水盆に返らず」というフレーズで、別の話も思い出した。このブログには珍しく政治の話になるが、来る8月30日の衆議院議員選挙のことである(最高裁判事の国民審査と、横浜市では市長選挙もある)。私は、この選挙が、「覆水盆に返らず」ということを皆が思い知ることになる選挙になると思っているのである。

まず最初に、私は特定の政党を支持することはしていないことをお断りしておく。特定の政治家を支持するということもしていない。利害調整団体に属しているということもない。なので私は、いわゆる(こういう呼び名は好きではないが)無党派層ということになるのだろう。

マニフェスト合戦、おおいにけっこうである。国民のためになる、日本国のためになる、こんなことをやります、実現します、工夫とアイデアの主張はどんどんやってもらいたい。たとえ、それが荒唐無稽で実現が怪しいものでも、言うのは無料だし、言うだけなら誰にでもできる。これに期待するのも勝手だし、そんなもの端(はな)から無理と突き放すのもよい。個人的には、マニフェストにある、「国民が得する(と錯覚させられる)」部分は、聞くに値しないと思っている。こんなものを真に受けて、将来どんなしっぺ返しが来るかと思うと、うはうは乗ってもいられない。

それよりも大事だと思うのは、この国をどういう方向に引っ張っていくのか、そのために国の仕組みをどう変えていくのか、そう言ったことだと思うのだが、残念ながらそう言ったことはあまり議論にはならないし、誰もが目先の損得だけで話をしているようにも見える。誰だって、自分が得するという話には前向きになるものだが、本当に得するのか、ということについての議論はあまりないようだ。あえて触れないようにしているのか、それとも議論するに値しないと思っているのか、あまり話題になることもない。

この異様なまでの「政権交代」(さすがにこれは選挙期間中はまずいと思ったのか、政権選択というように表現が変わったが)へのリードも、多くの人には違和感のあるものと映ったはずである。先日、たまたま訪れたコンビニでラジオ放送を流しており、正時だったのでニュースのタイミングだったが、その一声が「○○党の圧勝です。」というのには驚いた。要は世論調査を独自に行い、その結果がそうだったということなのだが、果たして公共の放送でこういう表現をしてよいものなのだろうか?これは、選挙権を取得したての私の娘でも「大丈夫なの、こう言うの?」と疑問を隠せないようであった。流されやすい国民性では、大勢がそうなっていると聞けば、雪崩を打ってそちらに流れてしまうことを十分に懸念しておかねばなるまい。

曾野綾子の「盆上の豆」理論では、日本の国民は、傾けられた盆の上の豆の如く、一方方向に流れる性質が強いという。この国民性が、かつての大戦争の際の動きにいい意味でも悪い意味でも影響を与えたのは間違いあるまい。マイノリティに属したくない、マイノリティであることを知られたくない、マイノリティを支持していることをよしとしない、そんな国民性がいいように利用されているというのは勘ぐりすぎだろうか?

モノを考えない人のための政治、そんな気がする。お金もらえます、高速道路は無料になります、収入を保証します、でも税金は増やしません、その方法は我々が考えます、と聞けばそっちに流れてしまうのも理解できる。だがちょっと調べれば、その裏にあるもの、たとえば各種の控除の廃止(実質的な増税)、無料化による採算性の喪失、資格や努力に関係なく一定の待遇、となればどこかおかしいことに気付く。だいたい、子供が1人いれば、1年で月給に匹敵する手当がもらえるとなれば、誰が自らの報酬を上げる努力をするだろうか?子供をよりよく育てたいと思えば、親が努力するしかないのである。こういった議論を置き去りにして、欲しい、助かる、といった論調ばかりを表に出せば、皆がそっちに向かって走ってしまうだろう。

ここまでは、「覆水盆に返らず」の一部である。いちど上げた給料は下げにくいように、ここまでの大盤振る舞いをやめるとなれば、その時点の政権へのダメージは計り知れない。つまり、始めたら最後、下り坂を転がるボールのように、止めるのは容易ではない。時限処置もない。やめるとなれば、月給相当の収入が一瞬で消え失せる。生活設計も容易ではない。あたかも麻薬のように依存性を持ってしまえば、それなしでの生活は耐えられない。そこまで考えての大盤振る舞いなのだろうか?

さらに重要なのが、これから書く「覆水盆に返らず」である。政党や立候補者のバックボーンは、ぜひ知っておかなければならない要素である。その政党がどのような支持団体を持っているのか、党の存在意義は何なのか、何を党是としているのか。政党が政権を取れば実現したいことは何なのか。それは誰のためのモノなのか?実現されてしまえば、それをひっくり返すことはできる類のものなのか?

企画書がマニフェストだとすれば、プレゼンする企画者が政党である。企画の是非を判断するには、企画書の善し悪しも重要だが、企画者の性質も重要である。果たしてその企画者に、この企画を任せられるのか?過去の実績まで鑑みて、企画者絡みで企画の是非を判断するのが一般的である。企画であるマニフェストはわかった、ではあなた方自身はどうなのだろうか?ということを問わねばならないだろう。

彼らは過去に何をやってきたのか?どのような支持組織があって、どのような活動をしているのか?我々に知らされていない、重要な動きはないか?言うことにいちいち矛盾があったり、議論から逃げようとする傾向がないか?身内びいきが激しくないか?すぐに謀略論を持ち出したり、論点のすり替えを行わないか?耳に聞こえのよいことばかりを強調しないか?抽象的でそれ自身は否定しようのない概念(平和など)を前面に出してこないか?そして何よりも、すぐに責任転嫁のような言動をとらないか?

従業員募集に応募してきた人を知るには、その人が今まで何をやってきたか、今何をやっているのかを知るのが一番だと思っている。これから何をやりたいかなんて、口でなんとでも言える。それよりも、それまでの実績と経験を、根掘り葉掘り、相手がうんざりするまで、自分が納得するまで聞くのだ。それに嫌がらずに対応してもらえる人、成功も失敗も包み隠さず話せる人、そういった人は信用できる。逆に、そういったことに抵抗する人、脚色や偏向が激しい人は、信用できない。一緒にやって行くには、基本となるのは信頼である。信頼のない関係には、将来はない。

後世の人たちから見て「お前らはやっぱり愚民だった」と言われないような選択をしよう。目先のうまみにごまかされず、子供たちの将来を見据えた選択をしよう。そして何よりも、取り返しの付かない結果になることだけは避けよう。プラスを意識する余りに、それを上回るマイナスを取ってしまうことのないように。「任せられる」「任せられない」ではなく、「任せてはいけない」といった基準も必要だと自分に言い聞かせよう。

そして何よりも大事なのは、自分の意志を反映することである。

モバイルバージョンを終了