久しぶりのつぶやきネタだ。今日、ある人と話していて、「マズローの欲求段階説」の話になった。知っている人は知っていると思うが(当たり前)、心理学者アブラハム・マズローの提唱した、「人間の欲求は5段階からなり、1段階満たされるたびにさらに上の段階が満たされることを志す」ということを表している。
この説によると、人間の欲求とは、以下の5段階から構成されるという。
生理的欲求…生物としての欲求。食べる、寝るなど生命維持に必要なレベルの欲求。
安全の欲求…安全に生きるための欲求。服を着て家に住む、健康に暮らす、などよい暮らしをしたいという欲求。
親和の欲求…集団的帰属の欲求。「所属と愛の欲求」ともいう。他者と関わること、他者と同一でいること、他人から愛されるなど、社会的な安定感を得たいという欲求。
自我の欲求…認知欲求。尊重の欲求ともいう。自身が価値ある存在として社会などから評価されることを願うという欲求。
自己実現の欲求…自身の能力、可能性を追求し、具現化して自己の成長を図りたいという欲求。
これが「生理的欲求」からピラミッド状に構成され、頂点が「自己実現の欲求」となる。ひとつ満たされればさらに上の欲求、というように欲深い人間の心理を表しているものとも言えるが、実際はこれらを達成するのは容易ではない。途中の階層に行き詰まり、ひとつ前の階層に落ちてそこを再び満たし、再び上の階層を目指すといったことが行われるという。
ただ、誰もがこのピラミッドをどんどん駆け上がれるワケではない。たとえば、「安全の欲求」までは満たされても、「親和の欲求」までは満たされない、そんなケースも多いのではないだろうか?他人とうまくやっていけない、集団に溶け込めない、そんなケースである。そういう人は、もはやその上を望むことはないのだろうか?いやむしろ、途中を吹っ飛ばして、いきなり上位の欲求を満たしたい、そんな行動に出ることも多いのではないだろうか?
また、中には「生理的欲求」で満足してしまったり、「安全の欲求」で満足してしまう、ということも最近の傾向としてはあるらしい。興味が、「美味しいスイーツ」や「激安弁当」といったものにしか向かない、毎日がつつがなく過ぎていけば満足、といった傾向である。自身が他人からどう見られているか、社会的にどう評価されているかということには無関心で、ごく身近な人たちの評価をすべてとして、第三者との交わりを軽視する、そんな傾向であると聞く。
ここまでは前振りで、これだけが書きたかったのだが、よくある「自己啓発書」にはまってしまうような人は、より上の階層を目指して奮闘しているように見えて、実は「生理的欲求」「安全の欲求」レベルで止まってしまっているのではないかということ。多くの売れている自己啓発書は、「あなたはあなたのままでいい」みたいなスタンスを採ることが多い。他人の目はどうあれ、自分自身という極めて狭い世界で自己を肯定してしまえば、そこで成長は止まってしまう。
自己の成長は、自己を厳しい外界に晒してこそと思っている私には(えらそーに)、一生縁のない類の本だなぁ、と思った。自分の欠点を長所に置き換える、なんて理屈ではそんなものかと思うが、実際にそんなことをやっていたら気持ち悪いだけだ。長所も短所も、相手との関係次第でひっくり返る程度のものなのだ。
話はちょっと飛び気味だが、より上の階層を目指さないのも、低い階層の満足度が高いからかなぁ、と思った次第であった。