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お風呂とシャワー

新年も4日目となると、通常モードを心掛けたくなります。なので、朝は早めに起きて、朝ご飯をきちんと食べて、そして仕事のリハビリを始めます。まだ休みなのに仕事なんてしなくても、とお思いでしょうが、ところがどっこい、問屋が卸しません。このまま、明日(5日)の初仕事を迎えてご覧なさい、仕事の要領を思い出すまでに半日はかかるでしょう。

ということで、表題とはまったく関係のない感じで始まったのですが、新年4日目、初ジムということで、トレーニングに行ってきました。大晦日から三が日にかけてだらけきった体にカツを入れてくるのが目的なのですが、実はこれは3日に行う予定でした(ジムは3日から営業していました)。ですが何たることか風邪をひき(休養に入るとなぜか風邪をひくという特異体質です)、3日は休養し、4日の今日に初ジムと相成ったわけです。

ここまで来ても、表題とは関係ないですね。前日にあまり調子もよくなかったので、今日は軽くやっていこうと思い、2時間くらいで済ませました(それでも2時間か!)。で、あがりにはいつもジムのお風呂に入っていくのですが、いつもいつも思っていることがありまして、これが今回のお題というわけです。

お風呂にはシャワーが付いていますね。何を当たり前のことを!と思うあなたは、よい人生を送ってきたのです。私の高校生時代、いや大学生時代まではお風呂にシャワーどころか、家にお風呂さえもなかったのです。銭湯の終了時間を意識しながらの生活は、けっこうきついものがありました。球技大会や体育祭のあとで、皆が「家に帰ってシャワーだ!」と言うのを何度恨めしく、うらやましく思ったことでしょう。

そろそろ本題に近くなってきたようですね。ジムのお風呂にはシャワーが付いており、ホース式の柔軟性に富む、今では当たり前のものです。ですが、へたくそな人が使うと、あたり一面に光線銃で撃ちまくるという事態が発生します。

ところで、ある日、私がいつものようにシャワーを使って体を洗い、湯船に浸かろうとしますと、ちょうど私の後で湯船に浸かっていたご老人が、何か叫びました。

「てめ、尻、水、汚ねぇ!」

短い、文章の体もなしてない発言ですが、意図は汲み取れました。私が洗った飛沫がかかってしまったようです。しかもやんごとなき場所のものが。すいませんと謝りましたが、その後もしばらくはそのご老人はぶつぶつ言いながらも、納得できないような目で私を見つめていました。

ま、それはそれとして、このようにシャワーは使い方を誤るとほかの人に被害を与えるものです。そこで考えたのですが、シャワーは本来、このような公衆浴場にはなじまないものではないかと。シャワーの歴史を研究したわけではないのですが、そもそも個室で発展してきたものが公衆浴場にも持ち込まれ、だんだんと柔軟性を増すことで扱いが難しくなってきたのではないかと、思うのです。

思えば、昔の銭湯のシャワーは、ノズル部分が壁に固定されており、その高さからして頭を洗う以外の目的に使うのは非常に面倒なものでした。頭を洗う以外には使わない、しかもノズルは斜め下を向いていますので、よほど乱暴な洗い方をしない限りは、他の人に迷惑をかけるということもありそうにないのです。

そのうち、ホースが付いて、体のどの部分にもシャワーを当てることができるようになってきて、その扱いにテクニックが要されるようになりました。上手な人は、せめて他の人を光線銃で撃つことのないように体との距離や位置などに絶妙な調整を見せるものなのですが、そうでない人はその調整がうまくいかず、意図的なのか無意識なのか、あたり一面に光線銃で撃つ、ということになってしまうようです。

そうです、そもそも、日本人にはシャワーなんて向かないのです。個室で使えば非常に便利なものですが、狭い場所に席を並べた公衆浴場では、周囲に被害を与えずにシャワーを使うには非常に高度なテクニックが要求されるのです。そういったものは、はっきり申し上げて一般的とは言えません。

これに気付いてから、私は桶にお湯を汲み、それをざばっと体にかける、昔ながらの方法に切り替えました。するとどうでしょう、どれだけお湯を使ったか、感覚的にわかるのです。桶で何杯、と数えるので、桶の容量が5リットルなら、10杯かけて、50リットルです。ああ、今日は50リットルも入浴に使ってしまった、とわかるのです。

これがシャワーだと、そうはいきません。果たして自分がどれだけのお湯を使ったのか、感覚的にもわかりません。ノズルを最大限に開き、単位時間あたりの流量を把握していれば可能かも知れませんが、そのようなデータを入手するのも難しそうです。

まぁ、これを以てエコにこじつけるのも野暮な話ですが、エコでもダイエットでも、今いったい、どれだけ使っているの?というのを把握するのがスタートです。西洋的な合理主義の産物であるシャワーですが、桶でお湯をかけるという日本的な合理主義との対比というものを考えてみるのも、暇な新年には相応しいかも知れません。

我ながら、シャワーひとつでよくもここまで書けるなと感心しますが…。

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