何となく、元旦ごろにどこかで見て「こりゃひどい」と思っていた「おせち事件」ですが、数日経ったところで知ったところによると、改めて酷い状態だったようですね。こんなに騒ぎになっていたとはつゆ知らず。
ところでグルーポンといえば、このブログの広告にもしょっちゅう出てくる、共同購入により価格を下げて購入できるというものですね。てっきり向こうのものかと思っていましたら、しっかり日本法人があるのですね。
今回は、グルーポンの対応は脇に置いておいて、おせちを巡る考え方というものを私感として書いてみたいと思いました。
実は我が家、おせちの材料は買ったりしますが、おせち全体を買ってくる、ということはしたことがありません。その理由として、「正月だから豪華なものを食べる」のがおせちではなくて、「正月ならではの縁起物を食べる」のがおせちと思っている、というのが共通認識だからです。
まぁ、人の考えはそれぞれなので、別に縁起を担ぐのだけが偉いとは思っておりません。お正月だから、奮発して豪華で美味しいものを食べたい、というのは十分アリと思います。
また、おせちの定義はそれぞれの家庭であってもよいですね。某芸能人の家庭ではお餅とおでんのようですし(これはこれで美味しそう)、ピッツァとかグラタンとかいうのも見ました(クリスマスかよ!)。でもまぁ、「お正月らしさ」というのは外して欲しくないと個人的に思いますけど。
コンビニのおせちとか、スーパーのおせちだって、縁起を担いでいればいいのでは?とか思われるでしょうが、縁起以外にも理由があります。なんか、こう、あの手のものが遠方で作られて、冷凍か冷蔵か知りませんが冷たい状態で運ばれてきて、届いたらぱっと開けて食べよう、というのに抵抗があるんですね。
もちろん我が家だって、宅配寿司、宅配ピザ、宅配ラーメン、宅配バーガー、そんなものを注文して食べるというのは日常的に(ごくまれに)やっていますから、それと同じことでは?ということもありますが、どうも何か受ける感覚が違うんですよね。
おせちの場合、かなり前から注文を取り始めて、年末に一気に送り出すのですから、おそらくどこかにバッファがあるに決まっています。そのバッファがイヤな感じです。その間、どのように扱われているのか、ちょっと想像したくない感じです。
おせちの材料だって同じよ、ということでしょうが、個別の材料はある程度吟味できましょうが、完成品ともなればそうもなかなかいかないのではないでしょうか?と思うのですよねぇ。
今回、注文の増加による材料不足、ということが指摘されているのですが、数が決まっているのですからそもそも材料不足というのはおかしいし、あの盛りつけにはどうも料理に対する真剣味や美的感覚が感じられません。聞けば、腐敗していたとか、下処理がなっていなかったとかということですから、そもそも食べ物を扱うことに対する感覚が、どうもずれているような気がします。
つまるところは、とんでもないものを出してしまった方が悪いんでしょうけど、ものに対する価値の認識とか、そんなものが大きくズレ始めているような感じもしないではないですね。