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【つぶやき】生きる学問としての理科

年を取るとつぶやきが多くなると言いますが…。

太陽が東に沈むとした大学生が1/4いるとか、1/2は月の満ち欠けを合理的に説明できないとか、そんな話を最近聞きます。しかも、彼らが小学生であったころにも同様のテストが実施されていたようですが、その当時と比率的には変わらないそうです。

ということで、小学生のときからほとんど成長してない、と一刀両断されているのですが、このあたりは、理科を生活の場で必要しなくなった、ということもあるかも知れません。

理科とは、「生きるための学問」と思っています。生きていくなら、他の学問も必要では?というのももっともなのですが、頭に付けるなら「自然の中で」とか、言い方を変えれば「生き抜くための学問」とでも言えるかと思います。

社会で生きるための学問が国語などの言語や社会だったりします。

世の中が便利になる中で、理科の知識をほとんど必要としない生活が当たり前になりました。水の量を量らないから、どれほどの重さの水が1リットルなのか体感的にわからないし、火を使わないから、火の消し方も知らないし、いつでも同じ作物が店頭に溢れているから、植物の旬もわからないとか、面倒見がよすぎる社会も困ったものかと。

こういった社会のサポートがなくなったら、何もできなくなるという状態は、非常に恐いのでは?

サバイバル術を学べとまでは言いませんが、重さや長さや温度など、単位を必要とするものはしっかり学んでおいた方がよいと思います。理科は受験に役に立たないとか、そういうことではなくて、生きるために学んでおく、そういった気構えが必要ではないかと思うのです。

万が一、何の道具もなくてフィールドに放り出されたとき、必要なのは自分の位置を知ることです。しかし、北極星の場所もわからず、自分の位置からの仰角の意味もわからないのでは、緯度も経度も割り出せません。Google Mapsは便利ですが…。笑

勇者よ、西に進め。と言われても、どっちが西だかわからなかったら進めないじゃないですか?いつまで経ってもダンジョンから出られない、なんてことにもなりかねません。

ということで、子どものときから理科大好き、の私が愚痴ってみました。

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