あまりの暑さと冷房のギャップに、体調を崩しそうになっています。
ということで、今回はいつものつぶやきでお許しを。最近いらつく話に、100%、完全でないと意味がない、といった論調や論旨が多いと感じておりまして。仕事場での会話、果ては国家レベルの話まで。
いつからこんな感じなんだろう、と考えましたが、そもそも100%や完全を求めるのなんて無理だし、そういったことを要求するのって逆に無責任だし物事が正常に働くのを阻害しているとまで思うのです。
仕事では納期を聞かれることがあるんですが、絶対に大丈夫ですか?と聞かれたら、大丈夫じゃない、と答えますね。すると、相手の人はそれって無責任じゃないかというのです。いやいや、100%じゃないのに大丈夫とは言えないし、言う方が無責任では?と言い返すと、なぜ100%になるようにしないのか、という話になるわけです。
そりゃもちろん、100%に近づける努力はしていますさ。しかしどうやったって100%になるわけないのは、理系でも科学者でもない人でも十分にわかるはず。私が「大丈夫じゃない」と自分から見ても大人げないなぁという返答をするのは、「大丈夫だ」と言ったら相手によっては本当に大丈夫と思われてしまうからです。
(ということは相手によっては正しく答えているわけですね)
つまり、「(ほぼ)大丈夫」と「(絶対に)大丈夫」のギャップですね。人間は、自分に都合のよい解釈をとりたがりますから、(絶対に)が欲しい人は後者を選択します。ですが普通は(ほぼ)程度に思っていた方が安全でしょう。(絶対に)を求める人には、あまのじゃくな返答をすることにしています。だって、怖いのですもの。
まぁいつものようによくわからないことを書いているなぁ、と思っていただいて結構なのです。話は飛びますが、原発にしても100%の安全は確保できないのだから、それをギリギリまで高めるのが必要なのは当然の話です。しかし、100%安全でないとダメという人がいる。実際に事故が起きてしまえば被害が甚大なのは、今回の地震で改めて確認されたことですが、それとは別に100%安全論は語る必要があると思います。
昨今、社会を騒がせている、いじめ事件にしてもそうです。こういう事件が起きると、必ずいじめをなくすには?みたいな話になるのですが、人間が負の感情を持っている限り、いじめはなくなりっこないんです。だったらどうするか?いじめは起きるものとして、それに対して精一杯対処すればよろしい。
いじめは悪、いじめはあってはならないとばかり考えているから、いざいじめが起きたらそれを隠す、なきものにすることばかりに心が行って、肝心の今起きているいじめをどうするか、という発想にならない。凄惨なあの事件の話を聞くたびに、起きていることをどうするかというよりは、起きていない、なかったものにしたいという方に心が行っていたと思い、残念でしょうがありません。
原発といじめ、まったく関係のない話のように見えますが、根っこはつながっているように見えます。原発だって、利権だ天下りだ補助金漬けだと言われながらも50年間使われてきているのですから、世間に完全に不必要な存在であるわけはないのです。悪いのは、都合の悪いことには目をつぶり、安全だと言い続けてきたことで、起きては困ることが起きたらそれを隠して目をそらすという行動になったのでしょう。
何事にも確実を求めたら時間の無駄、手間もムダ、それ以前に世の中をミスリードします。物事の正体を正しく知って、正しく付き合う、そんな知恵を身に付けたいものだとこの記事を書きながら思いました。
この話の結論って、納期は遅れるものなのだから、遅れても大丈夫なように策を考えろ、ということですね。トホホ。