こういうタイトルを付けると、事情を知っている人にはネタバレになってしまうのだが。昔々、ブログ主がプログラミングをやっていた頃のお話。かれこれ20年ほど前か。今でこそ少し落ち着いた人間になってきたが、当時のブログ主はいわゆる典型的な理系オタクであった(今でも?)。
いわゆる常識的な人たちから見ると許せないような言動もあったらしく、そのたびにタイトルのような言葉を浴びせられていたのであった。
しかし、ブログ主はまったく不愉快でなかった。彼らにとってのハッカーとは、どこかの新聞が間違った使い方をしたせいでクラッカーと同義になってしまったが、本来のハッカーとは技術レベルの高いプログラマーなどに与えられる称号だったからだ。
なので、彼らがどのような意味で用いていようが、私にとっては心地よいものだった。
「これだからハッカーは!」
ああ、もっと言ってくれ…。って言葉責めかよ!
今のブログ主は、当時の彼らと同じ年代になってしまった。しかしなぜか、なってない若い理系オタクを見ても「これだからハッカーは!」などと言う気にはならない。というか、そんな尖った人間を見ない。尖っているというより、逆に凹んでいるような感じもして、励ます必要はあっても責める気にはとうていならない。
当時のブログ主は、彼ら常識人にとっては本当に許せない存在だったのだろうな、と思う。何しろ、自分たちの知らない世界に住んでいて、自分たちの知らないことを、しかも役に立ちそうなことをさも当たり前のように話し実行する存在、しかもそれが正論だったり成果を出したりすると無性に腹が立って、当時の世間的には蔑称だった「ハッカー」という言葉で責めたのだろうと思う。
今のブログ主には、その気持ちは何となくわかる。ブログ主も長いこと生きてきて、尖ったものよりは世間で普通とされることを重用するようになってきた。すると、尖った物や人が何となく気にくわなかったり、好きになれなかったりすることがある。自分の中心に置くものが変わると、それまで好意的に見ていたものが、逆に敵意を持って見てしまうことがあるのだ。
こればかりはしようがないのだろう。皆歳を取ってきて、自分の上限やできることの範囲がわかってくる。そっちに行きたくてもいけない自分がいる。そんな苛立たしさを、そちらの人間にぶつけてしまうのだ。
「これだからハッカーは!」という言葉には、今では何とも言えない寂しさが伝わってくる。それが理解できるほど、歳を取ったことになるのだろうな、と日経夕刊のコラム「コードレビューの夜」を読みながら考えていた。