求めよ、されば授けられん。その2

今回も、nikkei.bp「ガ島通信」さんの「事件・事故報道で今一度考えたいメディアの責任と体質(中) 」からお題をいただいた。同ブログ記事(上)の内容については、概ね、「そうだね、そのとおり」という具合に賛同するトラックバックがほとんどだったようだが、皆がそうでは結局マスコミと同じことじゃないの?ということで、偏屈者らしく前回同様違った立場で続けてみたい。

今回の(中)では、誤報の生み出され方とその扱いについてが趣旨と思われる。誤報なんてものはない方がいいに決まっている。なのになぜ誤報が発生するのか、こういった業界に片足でも突っ込んでいる立場で書いてみよう。

誤報が発生する、これはニュースなどの報道に限ったことではなくて、広義の報道として広く出版、放送という視点で見ても常に発生していると見ていい。つまり、誤った情報を伝えたら、それは誤報である。そういう意味で、出版物の誤植も誤報だし、誤った犯人を報道してその人の人生を狂わせてしまった、それも誤報である。誤報が発生するには、一定のメカニズムがある。

放送、出版では情報については常にソースがある。事件が起きたときのネタ元もソースだし、単行本なら著者がいるし、雑誌のコラムだってライターがいる。そのソースの向こうに、さらにソースがいる(ある)場合もある。情報というものを最初に作り出した、たとえば婚約した芸能人同士にたどりつくまで、何段階ものソースが存在するといった具合だ。

このソースの品質自体は、正直な話かなり大きな差があると見ていい。よい品質のソースを手に入れるのが、記者や編集者の手腕なのだが、その記者や編集者の品質にも差があるので、はたしてどういう組み合わせで情報というものが伝えられているのか、そんなことは外部から知る由もない。

また一般的に、出版社や放送局、新聞社などでは、情報が最終的に紙面や電波に乗るまでに、いろいろな段階を経る。デスク、編集長、校閲、そういったそれなりのポジションの人たちが情報の取捨選択、方向付けを行う。いわば関門のようなものだが、そこにも品質の差は当然ある。つまり、品質的に何も保証のないものを組み合わせて、最終的に送られる情報として視聴者や読者は得ているわけである。こういうことを心得ておかなければならない。

さて、品質、品質といってきたが、これはいわゆる製造物の品質とはニュアンスが違う。要するに人そのものなんだから、人の質ということになる。そこには、取材能力とか執筆能力とかいろいろあるだろうが、姿勢というものも含まれる。極端な話、姿勢次第ですべて決まってしまうと過言しても構わないだろう。ソースから得た情報をどう扱うか、それは姿勢ですべて決まる。

最終的に送り出される情報の価値をどう見るか、何を読者や視聴者に伝えたいのか、何を最優先するのか、時間か、コストか、品質か…。そういった考え方の総合的なものが、姿勢となって現れるのだと思う。何よりも時間を優先した結果は、検証や検討の甘いものができあがる。

誤報が生み出される背景には、題材そのものへの興味のなさ、無関心というものも大きいのではないかと思っている。無関心は、必然的に前段階への無条件の委譲を生む。「ガ島通信」さんの記事では、信頼できる記者が書いた記事は信頼できるもの、といったあたりがそれに該当するだろか。記者にとっては、ソースが流してきた情報だから、ということになるのだろうか。こういったことが後工程にまで及ぶと、オリジナルに近い部分の情報の質というのが、ほとんどの部分を決めてしまうことも頷けるだろう。

なんだかまとまりのないものになってしまったが、情報を送り出す側のポジションで、とりあえず書いてみた。もちろん、だから仕方ないのですよ、といったことは思っていないので要注意。

コメント

  1. [ブログとメディアの関係] 罪と×

    ◎ □現在「ガ島通信」は諸事情でお休み中ですが、日経BPに掲載されている「fromガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く」は健在なのでときどき見に行きます(1週間に1度程度の更新)いまシリーズ?の「事件・事故報道で今一度考えたい メディアの責任と体質 上中下」が面白い。 5月19日掲載の(下)の冒頭は下記のとおりです。 >> 「あんたらもうええわ、社長を呼んで」などと、記者会見場で声を荒げてJR西日本の社員を罵倒していた記者が週刊誌に取り上げられ、所属する新聞社が「不適切発言」をおわびする…