今回は、ちょっとばばっちいお話しなので、あまり好きでない人は飛ばして下さい。しかも男性諸君にしかわからない話なので、話の察しが付いた人も、さっさと飛んで下さい。
さて私は、男性トイレで「これはイヤだ!」と思うことがふたつある。ひとつは、人のいるときに「大きい方」の個室に入ること、もうひとつは私がいるときに個室から出てこられることである。男性諸君なら、子供のとき、いや高校生あたりまでも、学校トイレの個室に入るところを級友に目撃されようものなら、思いっきりからかわれたという経験を持っているのではないだろうか?私などは、その経験が未だに尾を引いていて、誰かがいれば個室に入れないし、誰かがいれば個室から出てこれないのである。
そもそも、「小」ならよくて「大」ならからかいの対象になる、という話も変なのだが、このようなエピソードは吉田秋生「河よりも長くゆるやかに」にも登場してくるほど、理不尽な習慣として存在するらしい。果たして今でもそうなのかと思って息子に聞けば、今はそんなことはないらしい。なので、我々の年代あたりではそういうことはあるが、年代を経るとだんだんと「普通」のこととして扱われるということらしい。道理で、若い者は気にしないはずである。
その気にしない若者は、私が小用を足し、洗面台の前で手など洗っていると、さっそうと個室を出て現れる。これは、私にとってトイレでふたつめにいやなことだ。何となく、さっきまで個室でうなっていた人間の顔を見るのがイヤなのだ。これは、いちばんめにイヤなことの裏返しで、さっきまで個室でうなっていた顔を見られるのがイヤだ、ということもある。用を足してしばらくの間の顔というのは見られたくもないし、見るのも気が引けるのである。気が引けるから、そういう状況がイヤなんだろうと思う。
そういえば、私は食事中に顔を見られるのもイヤだし、食事中の人間の顔を見るのもいまいちである。いったい何でだろうと思うのだが、どうやら「本能」に近い作業をしているときの顔を見られたくないし、また見たくもないという心理があるらしい。本能に近い作業は動物的ということであり、そういった本能を満たしている瞬間というのは動物にとって危険であり、それが今も「羞恥心」という形で表に出てくるのではないか、と思うのだ。
またまた男性諸君にしかわからない話だが、誰かと小便器の前に立つとき、すぐに「出る」人と、その人が去るまで「出ない」人がいる。果たしてこの差は何だろうと思ったが、すぐに「出る」人は、私にとって警戒心のない人であり、「出ない」人は私にとって何らかの警戒心か、居心地の悪さを感じさせる人のようだ。ここもつまり動物的なもので、警戒心を与える人の前で、小用を足すとかいう無防備状態を作り出すわけにはいかない、という心理の結果だろう。もろ本能的な行為であるので、動物としての基本的な反応が出るのだろう。
そういう意味では、私は多分に動物的であり、あまりそういうことを気にしない若い人は、動物らしさが薄れていると言えるとも思ったりする。もしかしたら、いろんな「欲」が薄れている(食欲、性欲、金銭欲、名誉欲、など)のも、根っこは同じなのかしら、と思ったりもする。
コメント
海外にある下半分くらい開いてるトイレより
いいか・・・と思って耐えて使っています。
平気そうにふるまうことがいまの劇場型世間を
生きる技と割り切って我慢しています。
消音+消臭+無人確認励行