されどクワガタムシ

今日の産経新聞の記事によると、日本産クワガタムシと東南アジア産クワガタムシの交配が進んで、国産のものより大型であごも強力なものが見つかっているとか。この原因は、いう間でもなく海外産クワガタムシの輸入と、それを無配慮に放してしてしまう「似非」昆虫ファンの存在にあるわけだが、無邪気な存在と見ていられる事態ではなくなってきたようだ。ちょっと前に書いた、ペットブームへの苦言と同じようなものだが。

私の基本スタンスは、ニーズなければサービスもない、というものである。要するに、欲しがらなければそれに応えることもないというものだから、こういった問題は何でも欲しがる「バカ」の存在がもっとも大きなものと考えるのだ。いきなり「バカ」などと書くと物議を醸しそうだが、ちょっと前に書いた阿部元総理退陣の際の「阿呆」とおなじく、率直なイメージとして残しておきたい。

私は、こういった「バカ」が闊歩する風景をいろいろなところで見てきた。管理され、保全されている自然公園でザリガニ釣り、魚釣り、虫取りをする「バカ」、注意されると逆ギレして、自然は皆のものとほざく「バカ」、子供の前で退行を起こす「バカ」である。言っておくが、子供には「バカ」という表現は使わない。ここの「バカ」は、みな大人である。

自然公園にちょっとしたため池がある。そこにはザリガニや小さな魚、そのほかの小動物が棲み着く。水辺の生き物、植物を楽しんでもらおうという趣旨だ。だが、そのわきに折りたたみ式のチェアー、釣ったものを入れるバケツ、何の目的かクーラーボックス、えさ箱、網、釣り竿、そういったものを設置し、万全の体制で「狩り」にいそしむ者がいる。その風景だけでも異様なのだが、皆がその場所を離れるとき(食事か?)、子供が「このままにしておいていいの?」と父親に聞く。父親曰く、「いいんだよ、誰かに取られちゃうからね。」そういう問題じゃないだろ。子供は正常な判断をしようとしたが、「バカ」の父親がその芽をつみ取った。その後、この子は、ため池の脇で狩り道具一式を設置し、場所を離れるとしても放置するという、立派な狩人になるだろう。もちろん、このため池の脇には、「生き物をみだりに採集、持ち帰らないでください」と注意書きがあるのだ。

オヤジが真剣になってザリガニ釣りをしている、全部持って帰ろうとするオヤジに、妻や子供は言う、「いいじゃない全部持って帰らなくても、一匹や二匹でいいんじゃない?」でもオヤジは言う、「え~せっかく採ったのにさ~」これは真性の「バカ」であるとしかいいようがない。童心に返る、といえば聞こえはいいが、ガキのままに大人になってしまった「バカ」がここにいるのだ。童心に返ると言っても、大人の楽しみとしての「童心」をわかってない。大人が童心に返ると言っても、「節度」は最低限残したままにしておくものだ。

なんだか回りくどいな、とお思いだろうが、自然に海外産のクワガタムシが放たれる、海外産のクワガタムシを購入する、海外産のクワガタムシを欲しいと思う、そういったプロセスの中心には子供がいるのはもちろんだが、そこにはどうも父親の存在があるとしか思えないのだ。たいていの父親=男には昆虫好きの過去があるだろうし、それを自分の子供に投影している感じはする。だからといって、子供が望む強くたくましい海外産のクワガタムシを「無配慮に」買い与え、手に負えなくなれば「無責任に」放してしまう(たとえば雑木林に行って樹に放すなど)といった行為はあまりに「バカ」ではないだろうか?いい年扱いた大人が子供と同じ判断能力でどうするのか?

強いクワガタムシ、カブトムシは、東南アジアなど外国の森林にいる。それでいいではないか。もし、子供が成長し海外に行く力を付けたら、自分で確かめに行けばよい。カードゲームで興味を持った子供がそういう欲求を出したら、そう言えばよい。そうか、見てみたいか、欲しいか、といった欲求が小売業を動かし、輸入業者を動かす。こういったサイクルは、いい加減やめにして欲しいものだ。

子供が虫取りをしても、虫はいなくなりません、という話はよく聞く。その通り、子供の行動半径と技能で虫取りをしても、虫の生態系には影響を与えない。子供が虫取りをしている頃、大人は仕事をしたり、お茶を飲んで談笑したり、そこには関わっていなかったような気がする。今は、大人も一緒になって虫取りをする。大人の技能と行動範囲では、虫はおもしろいように捕獲できる。だがそれはちょっと違うだろう。

私も虫好きだから、カブトムシなど見つけるとすごくうれしい。だけどそれを持って帰ってしまったら負けである。たとえば丹沢山系の虫を横浜に持って帰ってきてしまったらどうなるか?といったことに明確に回答できなければ、やはりそのままにしておかなければならない、と感じるのである。

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