タイトルに惹かれて買ってしまった。サイモン・シン(Simon Singh)の「宇宙創成」(文庫版、上・下巻)である。文庫版は、新潮文庫から出ているが、単行書としては同じく新潮社から2006年に出ている。そのときのタイトルは、「ビッグバン宇宙論」。面白いことに、文庫版が同じタイトルで出ていたら私は買わなかっただろう。というわけで、文庫版にこのタイトルを付けようと思い立った編集者を賞賛したい。
サイモン・シンのシリーズは、発刊順に「フェルマーの最終定理」「暗号解読」があってどちらも文庫化されているのだが、書名が変わったのは「宇宙創成」だけである。「ビッグバン宇宙論」の方が内容にはダイレクトなのだろうが、「ビッグバン」に興味がない人にとっては(事実、私は宇宙に興味はあるがビッグバンについてはそれほどではなかった)無縁の書になってしまう可能性があった。「宇宙創成」では、雄大な構想が感じ取れる。ちょっと神がかったタイトルも、惹かれるものがある。
この本の内容を一言で言ってしまうと、古代から現代にかけての宇宙のとらえ方、すなわち「宇宙論」を時系列にほぼ沿う形でまとめていることだ。そもそもは、地球は丸いのか、そうでないのか、といったところから始まる。そして天動説か地動説か、宇宙は有限なのか無限なのか、果ては宇宙はどのように生まれたか、すなわちビッグバンの話まで、上下巻、700ページほどになるが、それを意識させない筆力でで楽しませてくれる。図版は豊富だが、難解な数式などはほとんど出てこない(有名なE=mc2ていど)ので、それほど物理や数学に明るくない人でもさくさく読み進めることができる。
さて、数式などは省いているということもあるとおり、実はこの本では個々の理論についてはあまり深く知ることはできない。そのようなところはこの本の目指すところではなく、すすの付いたような表現をすれば、「人間ドラマ」を語るというところが目的の半分はあるのではないだろうか?個々の理論を詳しく知りたければ、専門の本を読めばよい。だが、古代から連綿と続く宇宙に対する挑戦を、まるでドラマのように見たければ、この本はうってつけだ。登場人物、それは哲学者、科学者、物理学者、天文学者、数学者、果ては宗教人などとさまざまだが、その人物像にまで踏み込んだお話の展開で、臨場感のあるストーリーを楽しませてくれる。あの天才アインシュタインでも、宇宙定数の導入では決定的な過ちを犯し、その後に謝罪とともに撤回しているのだ。
それにしても、宇宙に挑戦する人々の、なんたる執念か。何しろ、敵は見えはするが触ることはできず、近づくこともできないのだ。手に入るのは、地球に届く光や電磁波などの、「波」だけである。しかも、その「波」は何億年も昔に発せられたものが「今頃」来た、というものである。その波を見て、分析し、星が遠ざかっているとか、絶対的な明るさはこれくらいだとか、地球からの距離はこれくらいだとか、推定してのけるのだ。もちろん、最初のうちは誤差の大きかった観測と理論も、時代が新しくなると更新されて精度を増してゆく。宇宙の年齢も、45億年くらいだったのが、今では130億年以上だ。
また、宇宙論は空だけを見ているのではなく、同じく直接触って確かめたり形を見るとかできない世界も重要な役割を果たしている。それが原子物理学で、原子レベル(素粒子レベル)で起きていることが、この宇宙の誕生と成長にこれ以上ないほどの密接さを持って影響していたのだ。見えるが遠くにありすぎてどうしようもないもの、近くにあるが小さすぎてどうしようもないもの、この極端な世界の邂逅というのが面白い。
お話を読んでいると、つくずく偶然の果たす役割が大きいなぁ、と思う。これをこの本では「セレンディピティ的」と表現している。ムダな繰り返しをしているようでも、いきなり「何か」に出会うことがある。それを見逃さなかったときだけ、奇跡が起きるのだ。何気なく見た一枚の写真プレートに真実があったなどというのは、実にドラマチックである。
理系離れが進んでいると言うが、こういったお話に熱中するこどもがいる限りは大丈夫だ。ある程度の年になったら、読ませたい一冊である。答えというのは、誰かに与えられるものではない。一つ一つの事実の積み重ねから、自らが生み出すものである。そんなことを、今さらながら伝えてくれる。
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サイモン・シン著 宇宙創成
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