出版業に関わっている身として、物書き(ライター、著述業)にとってベストな道具って何なのだろう?ということを考えてみた。
ブログ主が若かりし頃、いっぱしの物書きを気取っていた。そのとき使っていたのは、某出版社支給の原稿用紙である。もっとも原始的とも言えるその道具は、ほぼ万能であった。
ペンで文字を書き入れる。図を入れたかったらペンで書く。間違えたらペンで消してペンで書き直す。すべてがペンで完結するという簡潔さ(シャレじゃないよ)。
今でも、原稿用紙に万年筆でないと調子が出ない(ウソ)。あ、こういう人は実際にいらっしゃるのだが、あえて使い続けるというのは、やはり他の道具にはある、ある種の煩わしさがないということだろう。人間の力だけで書き進めることができる、そういう意味で万能と表現してみた。
ワープロが出現した。パソコンでワープロが使えるらしいとの情報に飛びついた。ブログ主の時代は、パソコンといっても8ビットのもので、性能は今のフィーチャーフォンのボタン1個分ほどしかないものだった(大げさか?)。文字を入れる、文字を消す。すべての動作が緩慢だった。
あっあっあっ、動いてる、動いてるよ、という周囲に誤解されそうな言葉を発しそうになるほどの緩慢さ。文字を入れる手がたびたび止まるストレスは半端じゃない。これは結局物書きには向かないと却下。すぐに原稿用紙に戻ったのである。
そこに再びワープロ出現。今度は16ビットパソコン用で、その名も「待つ」じゃなかった「松」といい、その性能と値段は羨望の的であった。何しろ、速い。文字入力にストレスなし。しかも日本語入力が半端なく賢い。
今になってみれば、こいつがバカ売れしたのがわかるような気がする。何しろ、すべてのワープロを過去に置き去りにした性能だ。ブログ主も、これで原稿を書きまくった。たとえ強力なコピープロテクトが施されていても、負けずに書いた。
ワープロなので、文字の大きさを倍にしたり、網掛けしたり、線を引いたりということができた。逆をいえば、その程度のことしかできなかった。今に思えば、この非力さがすごく物書きに向いていたような気がする。
そうこうするうちに、「一太郎」が登場した。こいつのスゴい点は、日本語入力を「ATOK」という別アプリケーションに切り離したことだ。しかもATOKは「一太郎」専用ではないのだ。これによって何が変わったか?
テキストエディタというものが脚光を浴びた。テキストエディタといえばプログラマ御用達、という感じだったが、日本語がビシバシ入れられるので、物書きの間にもテキストエディタが広まった。
テキストエディタというのは、ワープロのような文字の大きさを変えたり網を掛けたり線を引いたりする機能を持っていないが、その分あらゆる動作が軽快で、こと編集機能においてはワープロのようなまだるっこさがない。
ブログ主も、当時流行った「MIFES」をメインにそこにATOKを組み合わせ、原稿を書きまくった。あ、そのころは編集業やプログラミングにも足を突っ込んでいたので、原稿を書いていじりまくり、プログラムを書きまくった、かな?
Windows時代になると、ワープロは格段に進化する。文字の大きさを微妙に変えたり、色を付けたり、縦にも横にもレイアウトできたりと至れり尽くせりになる。最初は面白くてこいつでまた書きまくり、いじりまくったが、そのうち、こいつは物書きにとってどうなんだろう?と思うようになった。文章を書く、編集するということ以外の要素が多すぎるのだ。
見出しをちょっと大きくしてみようとか、色を付けてみようとか、そっちに気を取られて肝心の文章が疎かになる(感じがした)。なので、またテキストエディタに戻った。
こと、ものを書くということに集中したければ、やはりテキストエディタが最善と思う。これに優れた日本語入力ソフトがあれば鬼に金棒だ。ワープロは、一見よさそうなのだが、同じく文章を書いていても、何割かは時間を持って行かれているような気がする。しかも、トラブったときにはどうしようもない。
シンプルな道具にシンプルなテクニック、これがベストだ。と、30年間この仕事に関わってきて至った結論だ。
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