知らず知らずのうちに、無意識のうちに、、ある方向へと流されてしまうことはよくある。それは、普段目にするテレビ、新聞、雑誌、ネット、そういうものに出てくるキーワードがその大きな役割を果たしているのではないかな、と思っていたら、「R25」にコラムを連載していた髙橋秀実が、いいことを言った!
詳しくは、そのエッセイ(No.97)を読んで下さい、では済まないと思うので、ちょこっとだけ趣旨を引用させてもらおう。
テーマは、「少子化」であった。少子化というのは、読んで字のごとく、子供が少なくなっていく過程なのだが、少子化というのは、いわば婚姻率の低下でもある。なかなか男女が結婚しない、してもなかなか子供は作らない、そういうスパイラルの過程で、「少子化」が形成されていくわけだ。
「少子化」の原因は、子供を持った女性が働きにくい、産休でリタイアした女性が復帰しにくい、そんなことばかりクローズアップされているような気がするが、本当にそれだけなのだろうか。
そこで、エッセイでは言葉の持つ呪縛のようなものを問題として提起している。「少子化」問題によって、社会の抱えるいろいろな問題点が露わになり、このままでは子供を持ってもあまりよくないのではないかという意識を根っこに植え付けてしまう。よく聞くのは、未来を考えれば子供を産むのは、子供にとって可哀相だ、というもの。未来は自分たちで作るものであるし、先のことなんてどうなるかわからない。だが、未来に関して悲観的な要素を言葉にして表すことによって、それがあたかも実際に起きてしまうかのような印象を与えてしまう。
思うのは、今の世の中は、何かをするにしての前提条件を、あたかもあるかのようにクローズアップしすぎてはいないだろうか、と思う。結婚するにしても、相手がこんな条件を満たしているのが望ましい、住む場所はこんな条件を満たしているのが望ましい、子供を産むなら、こんな条件が整っているのが望ましいと、さまざまな条件でがんじがらめにして、その条件を満たさない限りは、前に一歩も進めないという錯覚を与える。それは、ビジネスの魂胆であったり、誰かの思惑でそう言っている部分は多くあるのだが、たいていはそれに気付かずに、そういうものだと思いこみ、自分を追い込んでいく。
思えば、私の結婚した頃は、そんなことは思いもよらなかった。まだ20年になるかならないかという感じだが、結婚後の生活は二人で作り上げていくものだという認識があったし、それは新しいステージへの移行でもあった。子供がオトナのことをわからないように、独身者は既婚者のことをわからないし、子なしは子持ちのことをわからない。同様に、平社員は管理職のことをわからないし、管理職も経営者のことはわからないのだ。だから、理解するためにステージを上げたいと思うし、それはエッセイの言う「想定外への飛躍」だろう。
想定外への飛躍とは、想定外だからあり得るのであり、すべて準備万端整ってから旅立つのでは、それは想定外への飛躍とは言えない。むしろ、想定内、なのである。今は、想定内になってから行動を起こしたいと思うことが普通なので、結果的に何も前に進まないのであろう。それもそのはず、想定外から想定内にするには、その中に飛び込まないとならないからだ。今はこうです、という安心の中にいる限りは、新しいものなど何も見えて来ないのだろうなぁ、と思ったのだ。
きっかけは「少子化」だが、現状を分析してレッテルを貼ることで、却って社会の持つ価値観を固定してしまうのはどうだかなぁ、と思ったのである。
コメント
まぁ、自分で考えられるように自分を教育せねば・・・誘導もされるでしょうし、呪縛からも逃げられないでしょうしねぇ・・・。「本当にそうなのか?」と批判的に考えられるかにかかってるねぇ・・。