「森林の崩壊」(新潮文庫)を、養老孟司さんの書評で知って読んでみた、日頃、「市民の森」だのに出掛けている私も、ものを知らないわけにはいくまいということで、今の日本の森林がどうなっているのか、知るために読んでみたのが、この本である。
新潮社
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元林業従事者から見て
日本の森が泣いている
日本は、緑豊かな国といわれる。だが、この本を読めば、その緑も、実体を伴わないものと気付く。緑豊かとはどういうことか、根本から考え直さねばならない、そういう気付きを与えてくれる本である。
そういえば、武田邦彦氏の本について取り上げた記事では、日本の森林は利用しないことが却って自然環境を破壊していると主張していた。
森林資源を使わないのが美徳と考え、その消費を最小限に抑えるために割り箸も使わず、そこから木材を切り出すなんてもってのほか、という考え方に対する批判である。
戦後すぐに、杉や檜といった針葉樹による人工林の植樹が各地で進んだ。要は、杉や檜は早く育つから、これを育てて森林資源として活用しようということで始まったが、これらが伐採可能なほどに育った今は、外材の方が利用しやすく安価ということで、うっちゃられている。よく知られることに、針葉樹林は広葉樹林に比べて保水能力が弱く、痩せた森では森林被害も発生する可能性がある。
日本の森林の多くが、実は所有者不明というのも、意外な事実である。きっちり管理され、登記簿を見ればどこが誰の所有であるということがわかろうというものだが、実はそうではないようだ。代替わりしてもそれが把握できず、また境界線も曖昧であるとか、このへんはけっこうずさんであると印象だ。でもそれでも、他人の所有地に勝手に入っていくことはできない。所有者がわからない森林は、入ることもできないし、手入れすることも当然できない。
ヨーロッパ、特にオーストリアとの比較が多い。オーストリアも森林国家だが、日本との違いがあまりに多いと、この本にはある。だがそれは、表に見える部分よりは、もっと深い部分での違いというのが正しい。実は、この本に書かれていることは、林業に限らず、農業、漁業など、自然相手にする業態すべてに当てはまるような気がするし、果ては日本の官僚機構全体を覆っているどうしようもなさに通じる部分がある。
要は、誰のために何をするかということの意識の違いで、オーストリアでは自分のため、そして国民のためという発想なのに対し、日本では自分のため、自組織のため、といった違いである。規制を作り、補助金で縛ってしまえば、あとはどうにでもなるという発想がいかにもお上的発想であり、そこには「どうすればベストなのか」という発想はない。
プロフェッショナルを育てるというよりは、ジェネラリストを育てるという官僚機構にも問題があるが、それをよしとする国民性にも問題があるのだろう。一般企業でも、プロフェッショナルは軽視され、マネジメントに長けたジェネラリストが重宝されるのである。
こういった政治的な話よりは、日本の伝統建築や、宮大工、建築大工といった、そっちの話の方が面白い。今を生きる若い人には知る術もない、古き良き時代の日本の家のことが書かれている。玄関から奥まで一気に見渡せる家、私の田舎の家もそうだった。風通しよく、吸湿に優れ、保温、保湿に優れる。こういったものを大事にする建築と日本の森林との関わり、そういったことが書かれている。
かなり書いてはみたが、それでもこの本については書ききれない部分がある。少しでも、日本の森や建築に思うところがあれば、読んでみて欲しい本である。
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