日刊どころか、週刊にもならなくなってきた。
少し気張っていこう。
今回は、手動写植機について書いてみる。
1924年に石井、森澤の両氏によって発明された写植機は、1929年になって実用機が大手の印刷会社に導入されだした。
1926年には、両氏により「写真植字機研究所」が創業されており、これは現在の「写研」である。しかし、森澤氏は1948年に写研を離れ、独自に「写真植字機開発株式会社」を操業している。これが、現在の「モリサワ」である。
それ以降、写植機は主に写研とモリサワという二大メーカーから発売されることになる。
写植機は、ほかにリョービなどが開発し、発売していた。
森澤氏が石井氏と離れた理由は、両氏の考え方の相違という説と、森澤氏が無断で独自の写植機を開発・販売したからと言う説があるが、その後に発生したフォント絡みの訴訟などを見ると、後者のような気がしてならない。
1955年頃までは、写植機にとって不遇の時代が続いたとされている。
それは、写植の問題と言うよりは、印刷技術の問題と言った方がよいだろう。
しかし、オフセット印刷の技術が向上するにつれ、写植の利点が生きてくるようになる。
以降、写研の手動写植機に絞って、変遷を簡単にまとめたいと思う。
「SK-3RY」は、1960年代に普及した、機械式の写植機である。
発明当時の原理を引き継いでおり、純粋な機械式であった。
写研は、自らのイニシャルであるSKを、製品等の名称に付けることが多かった。
文字を一字印字したら、印字位置を歯車を回して送り、次の文字を印字する。
やり直しもきかず、仕上がりは印画紙を現像してみるまでわからない。
熟練を要求する機械であった。
1975年頃には、「PAVO(パボ)」シリーズの最初の機種にあたる、PAVO-8が発売される。
PAVOと名前は、くじゃく座のPavoから取っているらしい。
後のSPICA(スピカ)は、乙女座の一等星の名前である。
なぜ数ある星座や星からこれらなのかは、わからない。
PAVO-8は、従来の純機械式の写植機に対し、電子制御の仕組みを導入したことが画期的であった。
何を電子制御するかというと、従来手回しで行っていたような作業を、パネルによる操作に置き換えているのである。
また、「インク点表示板」という文字を置いた位置にインクの点を打つ仕組みを導入し、作業中でも仕上がりのおおよその状態がわかるようになっていた。
その後、PAVOシリーズは改良が進み、PAVO-Jでは7セグメントLED表示器によって印字位置を数値で表示することも可能になった。
続くPAVO-JVでは、詰め印字用にディスプレイが付くようになった。
この段階で、文字を眺めながら作業できる環境になりつつあった。
PAVOシリーズ最後の機種は、名機と言われるPAVO-KYである。
PAVO-KYは、モノクロディスプレイを備えている。
ディスプレイ上には、現在の文字級数や変形率などが表示される。
また、円などの簡単なグラフィック、円弧組み、斜体などが使えて、これは当時の電算写植でもサポートされていなかったものであり、高機能であった。
1994年まで生産され、今でも特殊な組版などで使われている。
「SPICA」は、卓上型の手動写植機ということだ。
AH, AP, QDなどのラインナップがあるということだが、実はこれらの機種についてはほとんど知識として持っていない。
風説だが、写研の社員の中には、自分の子供に「パボ」とか「スピカ」という名前を付けた人もいるようである。
理由は、聞くまでもないだろう。
手動写植機は、電算写植が普及したあとも、電算写植が苦手とする組版で、需要は制限されながらも使われていた。
今でも、装丁用など特殊な目的で使われているようである。
手動写植の問題でもっとも大きなものは、「やり直しがきかない」と言うことであろう。
印画紙に露光してしまえば、それを取り消すことはできない。
何を重ねても、露光した部分が増えるだけである。
現像した印画紙にミスがあれば、もう一度作り直すか、「切り貼り」という手法で部分的に差し替える。
再利用という点では問題があったが、これは電算写植によって大きく改められることになる。
しかし、手動写植とは違ったスキルを要求されることになり、活版から写植に移ったときと同じように、写植オペレータの切り替えには悩みが生じたようだ。
次回は、電算写植について変遷をまとめてみたいと思う。
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