余命6ヶ月

今日、ジムで走っているときに、テレビを何となく見ていた。NHK総合の「ヒューマンドキュメンタリー」である。大腸がんの再々発で余命を宣告された、物理学者戸塚洋二氏の記録であった。東京大学名誉教授で、小柴昌俊氏の弟子であり、高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所教授でもあった。

ドキュメンタリーは、氏の勤めた研究所の風景と、氏の綴ったブログの朗読を中心に進む。研究者として偉大だった戸塚氏のことは、ここでは語るまい。常に学者であろうとし、「死」でさえも科学にしようとしていた。でも、そのことは誰にも伝えられないから科学になり得ないと、言葉で語るあたりは氏が一流の研究者、学者、学徒、そうであったと思わざるを得ない。

最近、自分の死のことを意識するようになってきた。今死んでも大丈夫なように、周囲をきれいにしておこうとか、いろいろなことが家族や同僚にわかるようにしておこうとか、そういうことを考えるようになった。そう言うと、「まだ若いでしょ」とか「縁起でもない」とかいわれるのだが、なぜか考えてしまう。身辺整理とまではいかないが、自分が今いなくなっても、周囲が困らないように、大丈夫なように、と考えてしまうのはなぜなのだろう?

さて、あなたはあと6ヶ月の命です、と宣告されたらどうするだろうか?こういう宣告は、たいていは悪性腫瘍、すなわち「がん」の場合に行われるであろう。がんがあることがわかった、命に関わる、もって6ヶ月です、と。こう言うことも考えはじめるあたり、自分でもそろそろヤバイのではないかと思う。こういう宣告なら、切って助かるものではないだろう。では内科治療を行うか?私は、抗がん剤を投与されて見る影もなくなった人を知っている。

自分で選べるならば、自然の成り行きに任せて朽ちていきたい。笑って過ごして、いつもどおりに仕事をして、ご飯を食べて、それもできなくなったら、静かに音楽を聴いたり、本を読んだり、寝ていてもできる自分の好きなことをしたい。体が動くならば、お世話になった人にお礼を言いに行きたい。

戸塚氏は、あくまでも科学者であろうとした。死ぬ直前まで、自分のCT画像をチェックし、体温、血圧などを記録した。腫瘍マーカーの変化をグラフにしたりした。そうなのだ、自分が今までやってきたこと、それを続ける。私は確信した。あくまでも、自分で選んで、自分らしく最後まで生きたいと思った。

コメント

  1. 野の花 より:

    私も・・・これは何年も前からなのですが、後10年後は?20年後は?とその時の自分を思い描こうとしています。でも、命は明日の日さえも保証されないので、むなしいことに思えてしまうのです。余命6か月・・・私なら、何か書いておきたいです。まず遺言書を。祖父は4通の遺言書を遺して亡くなりました。母に宛てたものしか読んでいませんが、本当に感動的に祖父の人生のあり方がそこに表れていました。私の遺言書はどのようなものになるかわかりませんが、それは今すぐに書いても良いものだと思っています。

  2. 7 より:

    大体私も同じような考えですね。
    周りに迷惑?をかけない様、身辺整理を開始しつつも
    普段通り仕事して、なにげにフェードアウトみたいな…。
    若干違うのは投薬して全身激痛!や生きる屍、
    になってでも生に執着したいなと思います。
    ともあれいつ死を宣告されても後悔しない様、
    毎日を精一杯生きていきたいものです。
    ちなみに「明日死にます」といわれたら又若干、
    対応が変わってきますね(笑
    とりあえず好きな物をお腹一杯食べたい。

  3. なおさん より:

    野の花さん、
    遺言書というと財産分与とかのために、といったイメージがありますが、残していく人たちへの手紙、とみると素敵ですね。
    そう言えば、遺言書の書き方、みたいな本が売れたような記憶があります。

  4. なおさん より:

    7さん、
    天命を受け入れるか、ぎりぎりまで生物として往生際悪くいくか。こればかりはわかりませんね、いざとなれば生に執着するかも。
    明日のこととなれば、いつもどおりに、なんて余裕はなくて刹那的な行動をとってしまうかも。